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小竹 寛仁 Hirohito.K

出身地:奈良県出身
学歴:香川西高校卒業【硬式野球部】
松阪大学(三重中京大学)【硬式野球部】
日本カイロプラクティックドクター専門学院2年制卒業
資格:JCDC認定 カイロプラクター
   厚生労働大臣認可 カイロプラクティック療法振興事業協同組合 正会員

治療家を目指したきっかけ・・・

私は、兄の影響で5歳くらいから野球を始めました。5歳の記憶はあまり定かではないですが・・・
 
 それから、大学卒業までの17年間を野球を中心に生活を送ってまいりました。子供の割には体が大きく肩も強かった為、小学5年から引退する22歳まで投手でした。

 小、中、高、大と長い期間、投球を続けたせいか、大学時代には腱板断裂という大きなケガに見舞われました。
腱板断裂は、投手にとって致命的なケガです。いくつかの病院に行き、CTやMRI画像を撮り、精密検査を行いましたがどの先生も、
「野球は諦めなさい。投手は絶対に無理だね」
と言われるばかりで、本当にショックでした。自慢できるほどの輝かしい野球人生ではありませんでしたが、自分なりに努力をし、野球で生活を成り立たそうと考えていた私には、悔しくて涙を流した覚えがあります。

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 そんな落ち込んだ日々を過ごす中、大阪にスポーツ選手が通う病院を紹介されたのです。そこで、私にとってはすごくユニークな先生と出会いました。その先生は、精密検査の結果を見て私にこう言いました。
「やっぱり投手は無理やな」
治るのではないかと少し期待していた私はすごくショックでした。
しかし、次に先生は

「投手は無理でも、子供とキャッチボールくらいしたいやろ?君の努力次第で可能性はゼロじゃない筈や、人生1回しかないねんから少し前向きに考えなさい」
と、笑いながら言ったのです。

 私は、あまりにも明るく言われたので、なぜかすごく前向きになりました。少しずつ自分の考えが変わっていき、1週間考えた後、将来子供とキャッチボールをするという、今までとは比較にならないくらいの小さい目標を目指して手術を決断したのです。

そして、手術・・・

手術は何事もなく成功しましたが、1年半に及ぶリハビリ生活がスタートしたのです。今思えば、この手術とリハビリが人生の大きな転機となりました。

 リハビリ生活は中学生の時に大きなケガ(野球で左手薬指二関節の骨折で移植手術)をして初めてではありませんでしたが、大学時代に経験したリハビリはとてつもなく辛く地味で長いものになりました。

 その時期に、様々な治療を受けました。理学療法士、柔道整復師、鍼灸師、整体師、スポーツトレーナー、カイロプラクターなど様々な治療に携わる人々と出会ったのです。

 私は、出会ったすべての方々からリハビリを続けるやる気を常に充電して頂き、1年半後には、奇跡的にも試合に登板ができる程に回復し、速度も140キロ台の速球を投げることができたのです。長いイニングは投げることはできませんでしたが、中継ぎとして大学時代を送りました。

主治医には、
「奇跡に近いけど、諦めんとよう頑張ったな。でも、オレの腕や」
 と笑いながら言われました。
 私は、主治医の先生をはじめとする治療してくださった皆様に心から感謝しながら、残りわずかであろう自分に残された野球人生を送りました。

 やはり奇跡的に復帰はできたものの、当然の事ながら野球で生活は成り立ちません。そんな風に感じ始めた頃に、このケガを乗り越えた経験を生かす仕事がしたいと思い始めました。この時期を境に私は治療家になるために行動を移し始めました。

 なかなか経験しようと思っても、経験できない事を経験できたことが治療家になるきっかけとなりました。大学を卒業し、専門学校に行くまでにサラリーマン時代を6年。さらに学校に通い開業するまでに2年半。
結局、22歳の時に志したものを実現するのに8年と長い月日が流れてしまいましたが、なんとか自分の治療院を構える事ができました。

まだまだ、未熟な私ではございますがみなさに少しでもお役に立てるよう日々精進して参りますので、よろしくお願い致します。
ちなみに、子供とキャッチボールをする目標は達成できそうです。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2018年撮影 左側、息子8歳 自宅前で練習にて

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